
■■■マイセン磁器の歴史/ドイツ■ ヨーロッパで最初に白磁を作り出す事に成功したマイセン窯。約300年の歴史がございます。今も職人が手作りで造形、絵付けを行い大変質の高い作品を作り続けております。マイセンの歴史やその時代を代表する作家について簡単にご紹介しております。 |
![]() マイセン ドレスデンの旅 |
マイセントップページ |
| マイセン写真集 | ||
| マイセンウニカート 3Dギャラリー |
W20世紀マイセン陶磁器 |
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| ■新しい時代様式■ 1900年に近づくにつれヨーロッパ各地で新しい芸術様式が広まってきた。イギリスのアール・アンド・クラフト運動、フランス「アールヌーボー」、ドイツ「ユーゲントシュティール」、オーストリア「セゼッション」などです。 マイセンでも伝統的なモチーフを大切にする一方で、当時の工場外の芸術家を招致して新しい作風のものも多数発表されます。これらのユーゲントシュティールの作品は、学術的には大変評価が高かったですが一般の購買者には受けいられませんでした。そのため、現在では生産されていないものが多いく、歴史の中にうずもれてしまっている作品ともいえます。しかし一部のファンの方に今でも絶大な人気のあるお品物です。 |
![]() 彗星模様 |
![]() クロッカス |
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![]() ヴェルナーデザイン |
![]() ホルスト・ミヒャエルデザイン |
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| ■ヘンチェル人形シリーズ■ マイセンの中でも人気の高いかわいい子供シリーズ、ヘンチェル人形。1904〜1907年にユーゲントシュティール人形として、ユリウス・コンラート・ヘンチェルによって14体のヘンチェル人形がつくられ今も製造されております。 その後ヘンチェルに影響を受けたパウル・ヘルミッヒ、アルフレッド・ケーニッヒ、エメリッヒ・エーラーなどにより更にヘンチェル人形が創造されました。定番の「ブルーオニオンのカップでミルクを飲む男の子(1905年作)」から、猫や犬と遊ぶ子供など、たくさんの種類がございます。 定番のもののほかに、アールヌーボー調の絵付けがされた世界限定300体のタイプや、アンティークのものも掲載しております。マイセンのお人形はその表情やしぐさから絶大な人気を博してます。 ヘンチェルによる子供のシリーズ1905年に製作され、特にブルーオニオンのカップを持った男の子は今でも人気が高いです。(もちろんドイツ本国でも大変人気がございます。)カップの裏にはマイセンである証の双剣マーク入りです。ブルーオニオンのカップをもった男の子の人形の背後に馬の人形が横たわってますが、アンティークのものではこの馬の人形の色が異なります。奥が深いです。 |
![]() ブルーオニオンのカップを持った男の子 |
![]() カップの裏には双剣マーク |
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![]() 様々なシリーズがあります |
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V19世紀マイセン陶磁器 |
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| ■工場の近代化■ 19世紀にはヨーロッパ各地に陶磁器工場ができ、競争の時代となりました。その中で特に各窯に大きな影響を与えたのが、ナポレオン1世の時代に生まれたフランスのアンピール(帝政)様式です。セーブル磁器は大きく躍進をとげることとなります。シンプルな形状が好まれたことから、絵付師のが手の込んだ人物や風景の絵付けを施すようになってきました。 ハインリヒ・ゴットロブ・キューンが経営責任者だった時代、マイセン工場は、原料の質の低下により粗悪な在庫をかかえていました。彼は1814-28年にかけ、まず磁土の改良、海外の磁器工場の技術の導入、新式の窯の導入、型造りと流し込み成形の導入、作品台帳の整理、販売価格の設定等を行います。更に、1827年、彼は焼成後の研磨工程が不要なグランツゴールドを開発し、マイセン磁器に使用を開始しました。工場長を務めた1828-63年においては、木材から石炭への燃料の転換、蒸気エンジンの設置等、工場近代化に大きな成果をあげます。彼により時代遅れだったマイセン工場は、これにより産業革命に耐えうる体制になりました。 彼のグランツゴールドの開発、更に光の加減によって虹色に変化するラスター彩の開発などにより、時代にあった作品が作れるようになり、また工場の近代化により生産増加も可能となりました。 |
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| ■マイセンローズの誕生■ マイセンは、工場外の作家を招致したアトリエ製作をおくなっており、1855年パリ万国博覧会や、1862年ロンドン万国博覧会に、ウニカートを初め素晴らしい作品を出展して、その名声を高めてました。また、外国からの豪華な特別注文の作品なども多数製作しています。 食器の絵付けでは、ヴァインリーフ(葡萄の葉)、マイセンローズ(開花した一輪の薔薇が左向きに描かれその右に蕾がある)、麦わら菊(現在のロイヤルコペンハーゲンのパターンでお馴染みですが、マイセンのほうが古い)など、現在でも製作されているビーダーマイヤー様式のパターンが誕生しました。 /麦わら菊とロイヤルコペンハーゲン/ブルーフルーテッド お馴染みのピンクローズや、イエローローズのほかに、ホワイトローズ、フラワーブーケなどたくさんの種類がございます。また何色もの絵の具を使った自然主義の薔薇は、わずか数人のペインターしか描くことができない作品です。 |
![]() ヴァインリーフ (葡萄の葉) |
![]() 麦わら菊 |
![]() マイセンローズ |
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| ■マイセンの花 印象派の影響■ マイセン陶磁器の絵付師の中でも印象派の影響を受けた作品が誕生しました。自然主義の花の絵で主導的な役割を果たしたのが、ユリウス・エドゥアルト・ブラウンスドルフです。彼は製作所の絵画学校を卒業し、1862年から花の絵付師としてマイセンで働いています。後に1880年からは教師として、1900年には教授になりました。彼の図案は「ブラウンスドルフの花」として今も製造されております。 一概にマイセンフラワーと言っても多くの種類がございます。 マイセン/ベーシックフラワーは全部で36種類あり、 メインの花の種類と色を指定しての注文も可能です。 スキャタードフラワーは小花を全体に描いた定番のシリーズです。 金彩が豪華なBフォーム、Xフォームも人気がございます。重厚感が漂うシリーズです。 ザビーネワックス女史を中心としたチームで製作された波の戯れのシェイプでも、多くのお花のシリーズが誕生いたしました。 数あるマイセンの花ですが、その中でも描きこみ等で特に高い技術が必要で、描くことの出来るペインターも数人です。 |
![]() ブラウンスドルフの花 |
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![]() マイセン自然主義の花 |
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![]() プラチナ彩 |
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U18世紀マイセン陶磁器 |
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| ■陶磁器製法技術の広がり■ マイセン陶磁器の製造方法は分離生産ということで管理され守られておりましたが、職人の逃亡などによりだんだんと外部に持ち出され、各地でマイセンのものと見分けがつかない製品が作られはじめした。1717年にはウィーン工房(後のアウガルテン)を設立するためにクラウディウス・インノケンティウス・デュ・パキエによりマイセンより職人が連れ出されています。 その為、マイセンと大変似た絵柄の食器や人形などが各地の窯で製作されました。アンティークのものをご覧になると、マイセンにそっくりな他の窯の作品など目にする機会も多いです。その最たるパターンが今もお馴染みのブルーオニオンではないでしょうか。 数多くのブルーオニオンが出ていますがオリジナルはマイセンのもの(1739年)です。東洋の縁起の良い模様を真似て、ザクロ、桃、竹、菊が描かれています。右のプレートのリム部分のザクロが玉ねぎ(コバルトブルーの)からこの名が付いたと言われています。あまりに類似品がでまわってしまったため、竹の根元とプレートの裏に双剣のマークを入れ、マイセンのものとわかるようにして、今も作り続けられています。 |
![]() アウガルテン/デュ・パキエ時代(1718-1744年) ハプスブルグ帝国の発展に貢献したオイゲン公に献納された柄 マイセン同様シノワズリのパターン |
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![]() マイセン/ブルーオニオン |
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| ■絵師ヘロルト■ マイセン工房にとっては職人の逃亡は大変な災難でしたが、それによってプラスになった事件もありました。 ウィーン工房に一度逃亡したサムエル・ステルツェン(マイセンでは焼成、粘土の下ごしらえ担当)は約束の報酬が得られなかったため、マイセン工房に自分の無実を証明する証人をつれて戻ってきました。この証人というのが後にマイセンの絵師となる、画家ヨハン・グレゴール・ヘロルトです。 彼は東洋風の絵付けのほかにも、港の光景、狩猟の場面、風景画やヨーロッパの花々を描く事にも長けており、マイセン絵付けの基礎をつくりました。有名なインドの華は1720年頃からヘロルトによって取り入れられた文様で、日本の柿右衛門模様から発想されたものです。当時東洋の陶磁器を運んでいたのが、東インド会社だったことからこの名がついたといいます。 |
![]() マイセン/絵師ヘロルト 1696〜1775年 |
![]() ヘロルト |
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![]() インドの華 |
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| ■型師ケンドラー■ ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーは15歳でドレスデン宮殿の宮廷彫刻師の弟子となりました。1730年に宮廷彫刻師となった翌年、マイセン工房の型師に、そして1733年に主任型師になります。ケンドラーは皇帝に委託された動物の彫像や日本宮の礼拝堂用の使徒像のための型を、前任の型師キルヒナーとともに作りましたが、キルヒナー亡き後はひとりでその仕事にいどみました。ケンドラーによって躍動感ある動物やロココ様式の優雅な人形、食器などまでがデザインされ、今も残っています。 今でも有名なのが、ザクセンの有名な大臣であるハインリッヒ・フォン・ブリュール伯爵のためにデザインされた白鳥のディナーセットです。レリーフに白鳥とその他の水鳥などが刻まれており、陰影で浮かび上がり、大変美しいです。 また、1739年には選帝候妃マリア・ヨゼファのためにスノーボウルフラワー(白いがまずみの花)や、四大元素や神話をモチーフにした人形、猿の楽隊なども製作しています。 パゴダは中国の神の坐像の形をした香炉、または小像で、マイセンでは1720年以降作られました。1760年プロシアのフリードリッヒ2世が10個のパゴダを注文して、ケンドラーが型をつくりました。男女がいます。頭と両手が動くのが特徴。その後、各地で模倣され多くのパゴダが製作されました。*パゴダ動画* アウグルト強王は大型の動物の像を沢山注文しコレクションとしました。現在ドレスデンの宮殿で見る事ができます。 全体にスノウボールの花を模した、磁器の小花で埋め尽くしたカップやベースも、1739年にケンドラーが提案したと言われております。マイセンを代表する、現在まで見るものを驚かせるデザインです。 四大元素、土、火、空気、水をテーマにした4つのエレメントベース。マイセンの造型の魅力を堪能できる見事なベースです。過去の王侯貴族もを魅了した芸術作品ではないでしょうか。 ケンドラーと同じ時代に型師エーベルライン、メイヤー、ライニッケなど優秀な人物が在籍しており、ロココ風の優雅な人形なども多数製作しています。 |
![]() マイセン/型師ケンドラー 1706〜1775年 |
![]() マイセン/スワンサービス |
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![]() ![]() マイセン/パゴダ人形 男女 |
![]() パゴダの原型になった仏陀の像 ツヴィンガー宮殿(ドイツ・ドレスデン) マイセン窯製 オリジナル(1700年代初め)のもの |
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![]() ドレスデン/パゴダ女性神 |
![]() マイセン/猿の楽隊 指揮者 |
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![]() パドアの雄鶏(高さ約77cm) |
![]() ツィンガー宮殿 |
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![]() スノウボール |
![]() 四大元素 ベース-土 |
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![]() 勇敢な仕立て屋 |
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| ■ロココの影響■ ヨーロッパ全体にルイ15世様式とも呼ばれるロココ様式が流行します。力強いバロックと比較して軽やかで優雅なロココを代表する画家アントワーヌ・ワトー(1684-1721年)やブーシェなどの絵画を参考に、マイセンでもロココ調の作品が生み出されました。音楽や踊りに興じる恋人たちの姿の人形は今でもマイセンを代表するものとして人気が高いです。 時代は変化し、やがてヘロルトの人気も落ちてきました。7年戦争1756-63年)の混乱も重なり工場は混乱にまきこまれ、1775年、マイセン陶磁器を大きく前進させたヘロルトとケンドラーは同じ年に世を去ります。18世紀中頃になると新古典主義がヨーロッパに広がっていき、1764年にはフランスからミシェル・ビクロール・アシェがマイセン工房に招かれ、神話、市民の生活の情景、子供の像を製作しはじめました。1765年ヘロルト引退後には、ワトー画や子供の天使がはやりはじめます。 |
![]() マイセン/ワトー画 恋人達 |
![]() マイセン/ワトー画 |
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| ■マルコリーニ時代■ 封建主義に市民階級が反発にロココは衰退し、日常的で実生活にあったものが求められたことから、マイセン工房も存続の危機に瀕します。ちょうどその時期、1774年カミーロ・マルコリーニ伯爵がマイセンの工場長となりました。彼の在職した40年の間に花絵付けにおいて、新古典主義の影響が見られます。 |
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T.マイセン窯の誕生 |
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| ■憧れの東洋陶磁器■ 1298年マルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」によって、ヨーロッパに初めて東洋の磁器の製造方法が紹介されたという。この本がでてから200年後、ポルトガルによってインドへの海上航路が発見され、利潤の高い東洋の富を巡ってその指導権争いが起こった。17世紀にはオランダ、18世紀にはイギリスが優位にたつことになりました。 輸入された東洋の陶磁器は珍重され、金銀宝石にも匹敵する価値があり、裕福な上流階級の人々がこぞって収集にはしった。その中でも最も熱烈なコレクターのひとりがザクセン選帝侯でポーランド王を兼任していた強王フリードリヒ・アウグスト(167.0-1733年)でした。右の写真がその王です。現在もドレスデンの街の壁をかざってます。近年マイセン社の陶板作品としても発表されました。 |
![]() マイセン/アウグスト強王 |
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| ■ヨーロッパ初★錬金術師ベットガーによる磁器の発見■ 東洋の磁器は白く、薄手で軽く、半透明な釉薬によって仕上げられていました。この頃、陶磁器製作技術をヨーロッパ人は知らなかったため、「磁器に毒入りの食物が入れられると粉々に壊れる」などという迷信まであったといいます。 その後、ヨーロッパ各地でこの磁器の秘密を解明しようと努力がなされた。ようやく成功にいたったのが18世紀、学者エーレンフリート・フォン・シュリンハウスと、錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベットガーと、ザクセンのアウグスト強王によるものでした。当時ザクセンは財政難で、利益の見込める磁器工場の設立が必要であったため、王はこの事業に出資したのでした。 「金属を金に変える」これが錬金術師の仕事です。ベットガーはプロシア王フリードリッヒから金を作り出すことを命じられましたが、成功しなかったため逃亡。1701年ザクセンのアウグスト強王のもとにやってきました。強王もベットガーに金の変性を命じましたができず、投獄してしまいます。ベットガーは1703年に一度逃亡しますがつかまり送り返され、シュリンハウスとともに陶磁器の開発に携わることとなりました。 ベットガーは質素な研究室であらゆる種類の粘土を配合し、様々な温度で焼成し実験を重ねました。そして1707年に出来上がったのが、赤いストーンウェア(ベットガーb器)です。その後白い素地を探す実験を続け、ようやく1708年1月15日、窯からでてきた7種のサンプルのうち3種が白く透き通っていました。更に生産するための模索を続け1709年に「良質の白い磁器」をつくるという覚書がベットガーから強王に書かれました。 ようやく、1710年王によりドレスデンに磁器工房設立の布告がなされ、工房はマイセンのアルブレヒツブルク城に移されました。マイセン窯の誕生です。 |
![]() アルブレヒト城/マイセン ![]() マイセン/アルブレヒト城 1908年 Barth飾皿 マイセン磁器の工房がある この美しい城はたびたび磁器の テーマとして登場します |
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![]() アルブレヒト城壁画/マイセン錬金術師たちの説明を受ける王(左) 実験をするベトガー(右) |
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| ■ベットガーb器■ 磁器製造の秘密を守る為、工場は城壁の中にありました。素地と釉薬の組成、焼成方法、窯の構造等の秘密を守る為、ベットガー工房では素地の配合を管理する者と、釉薬を管理する2人の管理者にまかされました。全工程を知っているのはベットガーただ一人です。 しかしまだこの時点でも焼成されていたのは赤いストーンウェアでした。彼は、このストーンウェアの表面にバロックやゴシック模様、花やシンボルなど様々な装飾を施し華やかなものをつくりました。この装飾に協力したのが、ヨハン・ヤコブ・イルミンガーです。その後も東洋の白い磁器をつくろうと研究実験を重ねたが確立にはいたらず、囚人としてのストレスで酒に救いを求めたベットガーは健康を損ね、1719年に37歳で亡くなってしまいました。 |
![]() ベットガーb器/2000年世界限定品/デキャンタ金彩レリーフ |
![]() ベットガーb器/ソーサー マイセンの風景レリーフ この色が赤いストーンウェアです ![]() ![]() ベドガー拓器の人形もございます 白磁より手頃な価格で人気 |
![]() ベットガーb器/ 2000年世界限定/ビアマグ |
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